必死に練習しても上手くならない人
中学時代、朝から活動時間の終わりまで必死に練習している部員がいた。
しかし、誰よりも時間をかけて練習しているにも関わらず、その人は上手くならなかった。
「努力は報われるものである」という視点にたったとき、彼女が上手くならないのはおかしい。
彼女が練習をしても上手くならない理由は、練習に「意図がないから」である。
ペンシルバニア大学心理学、アンジェラ・ダックワースの著書『やり抜く力』では、認知心理学者、アンダース・エリクソンの研究をもとに以下のように述べている。
ふつうの人びととちがって、エキスパートたちは、ただ何千時間もの練習を積み重ねているだけでなく、エリクソンのいう「意図的な練習」(deliberate practice)を行っている。
アンジェラ・ダックワース(2016)『GRIT やり抜く力』神崎朗子訳 ダイヤモンド社 p.169
1.才能がないから上手になれないのか
1.1.才能よりも努力が重要である
「意図的な練習」について説明する前に、努力をしても上達しない理由としてよくあげられる、才能について触れる。
ダックワースは著書『やり抜く力』のなかで「人生で何を成し遂げられるかは、『生まれ持った才能』よりも、『情熱』と『粘り強さ』によって決まる可能性が高い」(p.2)と述べている。
才能は成果を出すのに寄与するけれども、努力ほど影響が大きくないということだ。
1.2.才能をもてはやすのはそのほうが「ラク」だから
ではなぜ人々は努力よりも才能の影響が大きいと思うのだろうか?
実は、才能のせいにしてしまうのは理由がある。
それは才能のせいにするほうが「ラク」だからだ。
「つらくなるほどに努力をしても成果がでなかった。これ以上努力を重ねることは苦しい。
そうだ、私には才能がないんだから、努力をしても成果は出せないんだ。だから努力をする必要はない。
しかも、私は怠け者でもない。才能がないだけだ」
こう考えることで、才能という言葉、努力しない・成果を出せない自分を肯定することができてしまう。
1.3.「才能のある人」には誰でもなれる
ダックワースも同じことを述べている。
「天賦の才を持つ人」を神格化してしまったほうがラクなのだ。そうすれば、やすやすと現状に甘んじていられる
アンジェラ・ダックワース 『GRIT やり抜く力』 p.66
また、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツの名言として以下のものが紹介されている。
「貧しく生まれるのは君のせいじゃないが、貧しく死ぬようなら君のせいだ。」
参考:http://hiroki-suzuki.com/bill-gates
どちらの言葉も、生まれつきの才能・環境の影響の大きさを否定し、努力の重要性を説くものである。
「あなたが成果を出せないのは才能のせいじゃない」というのは厳しい言葉だと感じるだろうか?
私はむしろ希望に溢れた事実であるように思える。
多くの人が憧れる「才能のある人」には、誰でもなれる可能性があるということだからだ。
1.4.生まれつきの才能・環境を気にする意味はあるのか
私自身もこれまでの経験のなかで、生まれつきの環境の差を思い知ったことはある。
学生生活では、偏差値50程度の公立の高校に通っていて、平均年収をわずかに上回る私の家庭は「相対的に裕福」だった。
しかし、そこから大学に進学すると景色が大きく変わった。
その大学は偏差値60を超え、小学校から高校(中高は4つも!)も抱える学校で、当然周りの人の多くは裕福だから、私は「相対的に貧乏」になった。
仕送りの有無やそれに伴うアルバイトに使う時間、そして勉学に割ける時間。
貧富の差という前提があるだけで、学生生活におけるほとんどの物事において私は不利だと感じていた。
しかし、そんなものを気にしてもしょうがない。生まれつき備わっているものは今からどうすることはできない。
それよりも、今から変えられるものに意識を集中したほうがはるかに合理的ではないだろうか。
しかも、前述したように「才能よりも努力が重要である」という可能性があるのだ。非常に前向きな情報だと思わないだろうか?
2.練習しても上手くならない理由は「意図がないから」
2.1.「意図のない練習」とはなにか
練習しても上手くならない理由は「意図がないから」だと述べた。
では、意図のない練習とはどのようなものだろうか。簡潔にいえば、何も考えず、ただやるだけの練習である。
たとえ、どんなにつらい思いをしても、時間をかけても、何も考えずにただやっているだけでは意図のない練習であると見なされる。
2.2.苦しい思いをしても意味がない
よくあるのは、膨大な時間を費やして、苦しい思いをしながら練習をしたけれど成果が出ないということ。
そういう人は「苦しい思いをすることこそが努力だ、それこそが成果を出すために必要不可欠な要素である」と考えている。
しかしそれは本当に正しいだろうか?
そうした人は、自分は努力をしていると考えているかもしれないが、「苦しい思いをすること、膨大な時間をかけること」が努力なのだろうか?
2.3.努力とはなにか(意図的な練習の前に)
意図的な練習の話をする前に、努力とはなにかについて定義を考える。
これを考えておかなければ、意図的な練習を知ったときに「そんなものは努力とは言えない」と感じるかもしれないからだ。
私は努力を「成果を出すための行動」だと考えている。
つらい思いをすることや膨大な時間をかけることは努力の定義に当てはまらない。
つらい思いをしようとも、膨大な時間をかけようとも、ほんの少しも成果が出なかったとしたなら、それまでにやってきたことは努力とはいえない。
やる気にあふれ、疲労困憊するまで努力している人でも、必ずしも「意図的な練習」を行っているとは限らない。
アンジェラ・ダックワース 『GRIT やり抜く力』 p.194
厳しい考え方のように思えるかもしれないが、優しい側面もある。
それは、成果が出ないと努力をしたとは言えないということは、逆に「努力は必ず報われる」といえるということだ。
もちろん、努力をしても、目標を達成できないことはある。
しかし、ほんのわずかでも目標に近づいたのであれば、それは少しの成果が出ているのだから努力だと考える。
決して、「1番にならなければ努力ではない」と言っているわけではない。
2.4.「意図的な練習」とはなにか
「意図的な練習」を説明するときの一例として科学的であることをあげたい。
ジュリアード音楽院のパフォーマンス心理学者、ノア・カゲヤマ、2歳でヴァイオリンを始めたが、「意図的な練習」を始めたのは22歳になってからだった。(中略)
アンジェラ・ダックワース(2016)『GRIT やり抜く力』神崎朗子訳 ダイヤモンド社 p.194-195
練習にも科学的知識にもとづいた”技術”があること、つまり、スキルをもっと効率よく向上させる方法があることを理解したとたん、練習の質も、満足度も、急激に著しく向上したのだ。
2.5.「意図的な練習」の私の経験
私も楽器を練習するときは「ただなんとなく楽器を吹く」から始めた。
その後に、先生から教わった「基礎的な練習を行う」ところに進んだ。
次に、その練習の効果・意味を理解してきたが、それはまだ科学的ではない。
そして、科学的知識に基づいた技術に出会った。
以下の記事はアンブシュア(おおまかに楽器の吹き方、口の当て方)を3タイプ分類して、その奏法について述べている。
金管楽器の3つの基本アンブシュアタイプ | バジル・クリッツァーのブログ
この記事を書いた(翻訳した)方に実際に私の吹き方を見ていただいたうえで、これからの練習の方針について話を聞いた。
楽器でもスポーツでも同じだろうが、何十年も同じことを続けていると、上達が止まるかのような閉塞感がある。
しかし、上記の話を聞いてから、数年ぶりに「上達」という実感を得られるようになった。
2.6.「考えて」練習することが大切
これがわかりやすい「意図的な練習」の例だ。
練習の目的はなにか、どうすることが正しいのか、どれくらいの時間をかけるべきなのか、体の動きはどうあるべきなのか、科学的な根拠はあるのか。
ただ練習をするのではなく、なぜ練習をするのかを「考える」ことが大切である。
何の考えもなしに、ただただ練習を続けるだけでは意味がない。
そして、やらないこと、時間をかけすぎないことが成果につながるのであれば、徹底してやらない、時間をかけない。
本番前に、体が動かなくなるほど練習をすることが努力だとは誰も思わないだろう。
努力は成果を出すためにするのだから、それが必ずしもつらいものである必要はない。
3.意図的な練習はどのようにして行うのか
3.1.意図的な練習はつらい
最後に意図的な練習はどのようなものなのか、もう少し深く説明したい。
努力は必ずしもつらいものではないと述べたが、意図的な練習は必ずしもつらくないというものではない。
しかし、本質的にこの「つらい」の意味は異なり、二つの主張は矛盾しない。
「意図的な練習」はきわめて「大変」で、少しも「楽しくない」と回答した。
アンジェラ・ダックワース(2016)『GRIT やり抜く力』神崎朗子訳 ダイヤモンド社 p.179
『やり抜く力』のなかで、競泳選手のローディ・ケインズは意図的な練習について「練習はつらかったが、それでも続けられたのは水泳が好きだったから」と述べている(p.118)。
つまり例えるなら、「練習がつらくて、部活動も嫌いになって、辞めてしまった」ということはないということだ。
確かに、意図的な練習もつらいものかもしれないが、練習の対象が嫌いにはならない。
また、意図的な練習は成果をもたらしてくれるはずだから、”上達”がモチベーションを維持してくれる。
意図のない練習は、目的そのものが「つらい」という感情を得るものになりがちである。
一方、意図的な練習は、あくまで成果をあげるうえで「つらい」という感情が付随するというだけであり、必要不可欠なものではない。
意図的な練習は決して「ラクをして成果を上げる方法」という都合の良いものではない。しかし、努力を重ねることで成果を上げたいと考えているのであれば必要なものである。
3.2.意図的な練習に必要な要件
ダックワース教授は「意図的な練習」に必要な要件として以下の4点をあげている。
- 明確に定義されたストレッチ目標
- 完全な集中と努力
- すみやかで有益なフィードバック
- たゆまぬ反省と改良(p.194)
詳細な説明は本書に譲るとして、それぞれの項目についていくつか補足をしておきたい。
(1)明確に定義されたストレッチ目標
目標設定の方法には理論がある。
本書の「ストレッチ目標」という言葉には適切な高さの目標という意味があると私は捉えている。
以下の記事にも書いたが、できるかできないか微妙な難易度の目標が好ましい。
簡単に達成できるものだと成長につながらないし、高すぎると達成しようと思えない。
どちらもモチベーション維持につながらない。
参考:目標設定の秘訣はできるかできないか微妙な難易度にすること
また、目標は具体的で測定可能なものが好ましい。
曖昧な目標では、達成したがどうかを自分の曖昧な基準で決めてしまうことになる。
あなたのことを好きな人でも、嫌いな人でも、目標に対しては同じ評価しかできない程度に具体的で測定可能であると、目標に対する評価が的確になる。
わかりやすいのはタイムである。
例えば、50mを8秒で走るという目標は具体的で測定可能である。
私のように音楽の世界だと難しい。キレイな音を出すでは不十分である。
(2)完全な集中と努力
これは想像しやすいが、行うことは非常に難しい。
私もほとんどできていないことが多いため、やり抜く力の印象的な一説を紹介する。
面白いことに、多くのエキスパートはひとの見ていないところで努力する。
アンジェラ・ダックワース(2016)『GRIT やり抜く力』神崎朗子訳 ダイヤモンド社 p.171
これには2つの意味があるように思う。
- 集中するときは、誰かと練習するのではなく一人で努力する
- 努力というものは誰かに見せてアピールするものではない。アピールは成果を見せるときでいい。努力で成果を出せないかもと思うから、せめて努力を見せようと考えてしまう。
(3)すみやかで有益なフィードバック
フィードバックについて以下の記事で詳しく述べている。
基本的にフィードバックは他者から受け取るものであるから、ある程度は優秀な師や友人に巡り会えるかに依存してしまう。
後述するが、こうした偶然や恵まれた環境の影響はやはり否定できない。
せめてフィードバックを受け取るときに、「気をつかわないで、率直な意見が聞きたい」など、フィードバックの方法を教えたり、詳しく話を聞き出したりすることで、フィードバックの質を上げることが好ましい。
(4)たゆまぬ反省と改良
PDCAサイクルをご存じだろうか、もともとは製造現場で生まれたものだが、ビジネスパーソンであれば、ほとんどの人が知っている手法である。
Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する
WikipediaPDCAサイクルより
たゆまぬ反省と改良というのは、概ねこのPDCAサイクルを思い浮かべればいいと私は考えている。
『やり抜く力』のなかでも、有名な日本の製造業の特徴である「カイゼン(改善)」(p.165)について触れている。
4.まとめ:環境と才能について
本記事では大まかに3つのことについて説明してきた。
- 成果を出すにあたって、才能よりも努力のほうが影響が大きい
- 練習をしても上手くならない理由は「意図がないから」、つらいだけの努力は必要ない
- 意図的な練習とはどのようにして行うのか(4つの要素)
4.1.本当に才能は重要でないのか?
根深いのは才能と努力に関する話であるから、さらに補足する。
私のような若い人間が才能よりも努力が大切だと述べても、「あなたは苦労をしていない」「恵まれているから気づかない」「才能がない人間の気持ちがわからない」という反論をされることが多い。
才能のある人や恵まれた環境に生まれた人の方が有利であることは否定しない。
容姿や身長といった「目に見える才能」が役者・スポーツといった分野で有利に働いていることは誰の目にも明らかだろう。
しかしながら、平等な目で見れば、そのような世界においても例外がいることがわかる。私の場合、リオネル・メッシのように、身長が低いにもかかわらず世界一のプレーを見せるサッカー選手が思い浮かぶ。
その例外の存在が、才能は成果を出すのに影響はするけれど、努力によって十二分に補うことができることを示していると考える。
4.2.生まれた環境も影響する
また、生まれた環境の影響も確かにある。
一般に裕福な家庭に生まれた人のほうが良い大学に進学する確率は高い。そして、言うまでもなく、良い大学に進学したほうが裕福になりやすい。
こうした「富の連鎖」というものは実際に存在していると感じる機会はある。
参考:「親の年収が高い子どもの学力は高い」と調査結果、これはどう考えたらいい? | THE PAGE(ザ・ページ)
恵まれない環境に生まれた人たちは、恵まれた人がしなくてもいいような努力をしなければ、隣に並ぶことができないというのもおそらく事実だろう。
私は奨学金を借りなければ大学にいけなかったし、仕送りは一円もなかった。
大学の友人からは「トップクラスの成績をとればさらに奨学金が出るのだから、努力しないのがいけない」と言われたことがある。本当にそうだろうか。
裕福な家庭に育った人は成績に関わらずお金に困らない、貧乏な家庭に育った人は優秀な成績を収めなければお金に困る。
これが平等だといえるだろうか?
4.3.生まれた環境は「気にしない」
しかし、こうした議論にはキリがない。
私は学費の一部を親に払ってもらっていたから、それで恵まれているという意見もよくわかる。
「オレのほうが苦労しているから、おまえにはわからないかもしれないが、生まれた環境には逆らえない」と言っている人よりもはるかに恵まれていない人は絶対にいる。
そもそも日本人であることが、一般的には恵まれていることだと考えられている。
だから、この問題に対する処方箋は「気にしない」ことだ。
もう生まれてしまったのだから、気にしてもしょうがないと考える。
恵まれていようが、恵まれていなかろうが、自分は特別だとは思わずに、ただ与えられた条件で全力で戦うべきである。
生まれた環境を改善することは考えても、「生まれた環境が悪いから……」と考えることはやめる。生産的でないからだ。
才能も同じである。
4.4.固定思考よりも「成長思考」になろう
本書でも紹介されている、固定思考と成長思考という考え方がある。
- 固定思考の人は、人間は変われないと考えている。「じつは才能があると思っている人に多い」(p.240)という
- 成長思考の人は、人間は変われる、成果を出せるかどうかは、努力に変えることができると考えている
才能や生まれた環境が思いのほか、大きかったとしても、固定思考には希望がない。
仮に固定思考を信じたとしても、現状からなにも変わることができないからだ。
成長思考でいれば、自分も成果をあげられる可能性が残る。どちらを信じたほうがメリットがあるのかは明白だろう。
一方で、ここに才能や生まれた環境の大きさを主張してしまう理由がある。
これまで固定思考で生きてきて、これまでの自分のあげてきた成果に不満がある人は、成長思考を否定したい。
そうでなければ、これまでの不満のある成果は「他人のせいでなく、自分のせいになってしまう」からだ。
しかし、実際のところ「自分は恵まれていないなりに必死にやってきた」という人が多いのではないだろうか。
それは紛れもなく、努力によって、どんな状況であろうとも成果をあげてきた証拠だと私は思う。
この2つの思考については下記の書籍で詳しく語られている。
4.5.さいごに
この長い記事を読み抜いた人にはぜひ成長思考になって欲しい。
才能や生まれた環境の影響を認めつつも気にせず、意図的な練習・努力によって、自らの目標を達成してして欲しい。
そのために、どのような意図を持って練習をすればいいのか念入りに調べ、常に考えながら行動をするべきである。
そのときに、苦しい思いをすることはあるだろうが、必ずしも苦しい思いをしなければ努力であるというわけではない。
こうした考え方、行動の仕方で人生が良いほうに進んでいくと私は考えている。
『やり抜く力』は、私のなかの「上手く言えないけど感じていること」を論理的に、また科学的根拠を持って書かれた名著だと感じている。おすすめしたい。
これについては賛否両論がある。
例えば、遺伝学的にIQに関しては才能の影響も大きいという見解がある。スポーツにおける身長の影響は決して無視できない。
夢のない話だが、大切なのは現実を受け止めたうえで、変えられる部分にフォーカスして努力をすることが大切だ。