なぜ思い出は美化されるのか?思い出の美化は幸せの錯覚、一時的な幸福でしかない

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「思い出は美化される」ということはよく知られています。

過去の思い出の悪い部分を忘れて、良い部分だけ覚えていたり、悪い記憶を改変したりするのはなぜでしょうか?

今回は「思い出が美化される理由」と、思い出が美化されていることを意識しなければ、本当の意味での幸せを得ることができないことを説明します。

思い出の美化そのものが悪いわけではありませんが、その仕組みに関して知っておくことは、上手く思い出と付き合っていくのに役立つでしょう。

なぜ思い出は美化されるのか

1.悪い思い出は忘れたい

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思い出が美化される理由としてよくあげられるのが、人間の心の防衛本能によるというものです。

嫌な出来事の記憶は人の心にダメージを与えます。当然ダメージを受け続ければ心は壊れてしまいますから、そのような嫌な出来事は忘れるように脳が仕組んでいるのです。

こうして、嫌な記憶が忘れ去られていくために、結果として思い出は美化されるといわれるのでしょう。

これはごく一般的な考え方で、他のウェブサイトなどでも紹介されています。

思い出が美化されるのはナゼ!? 記憶を操る脳のメカニズムに迫る!

2.よい思い出じゃないと嫌だ

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もう一つ、思い出が美化される理由をあげましょう。ぼくはこれによる影響のほうが、大きいのではないかと考えています。

それは「よい思い出じゃないと嫌だ」と人が心の奥底で思うことによって、思い出が美化されるというものです。

バラバラだった合唱祭でも、いい思い出になる

どういうことなのか、合唱祭での例をあげて説明しましょう。

 
1組は合唱祭でとある歌を歌うことになっていますが、みんながバラバラで、ケンカばかりしていました

途中で泣き出したりする人もいて、クラスの雰囲気は最悪。クラスの全員が不幸だと感じています

膨大な練習時間を費やしているにも関わらず、あまり良い出来だとはいえません。

 
本番は思いのほかうまく行きました。

すると不思議なことに、本番のあと「楽しかった!」「終わりよければすべてよし」「なんだかんだいい経験だった」と、このような意見がたくさんでてきました。

クラスの雰囲気を壊した人や、誰かを泣かせた人のことには誰も触れません。

今でも、1組のみんなにとって、合唱祭はよい思い出として記憶に残っています。

1組になにが起きたのか

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なぜ、本番を迎えるまで「嫌な思い出」となるはずだった合唱祭が「よい思い出」に変わったのでしょうか。

それは1組のみんなによって、合唱祭はよい思い出にならないと困るからです。

 
1組のみんなは膨大な練習時間を費やしています。大変な苦労をしています。

そんな合唱祭が「悪い思い出」だったら嫌でしょう。自分たちの努力がなんだったのかわからなくなります。

だから、この合唱祭はよかった、よい思い出だと心の奥底で思おうとしているのです

もちろん達成感やその場の高揚感が、良い気持ちを思いおこさせたこともありますが、一因として上記の理由もあげられるでしょう。

悪いことだけじゃないが問題はある

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結果として、合唱祭は上手くいった、よかったと思うことは重要なことですし、実際そこで「最悪だった……」と思うことにメリットはありません。

しかし、クラスが上手く行かなかったときのことに触れないのは問題ではありませんでしょうか

多くの場合「結果として上手くいったのだから」「むしろあれが大切だった」などと言われ、触れられずに流されてしまいます。

つまり、そうした問題が起きた原因や、解決策は提示されないままになってしまうということです

1組は同じことをまた繰り返す可能性が高いでしょう。

 
1組のようなことは決して珍しくありません。

ぼくは10年以上のオーケストラ経験のなかで、1組のようなオーケストラをいくつも見てきています。

思い出の美化は幸せの錯覚である

不幸と幸福を繰り返す

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1組のような思い出の美化による幸福には大きな問題があります。

それは幸福が一時的であり、不幸と幸福を交互に繰り返すものであるということです

 
1組は最初間違いなく不幸でした。そして、本番が終わった後、幸福だと感じるようになりました。

しかし最初は不幸だったということは間違いなく事実であり、今でこそ良かったと思えるものの、やはりそのときは辛かったでしょう

1組が次に運動会に取り組むとき、原因が解消されていないために、また不幸を感じることになります。

そして運動会が終われば、また幸福を感じるでしょう。

一時的な幸福では意味がない

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思い出の美化における問題を自覚し、問題を解消しなければ、不幸と幸福は何度も繰り返されるのです

辛い思いをして、終わったときに幸せを感じて……というものを繰り返す。このような人生を送っていると感じる人は少なくないのではないでしょうか。

 
本当にこのような組織や人生の送り方は好ましいものなのでしょうか。

できることならば、練習に取り組んでいる最中も、幸せを感じられるようにするべきなのではないでしょうか?

過程が幸せではないのに、結果として幸せだったと思い込む。これが本当に望ましい幸福でしょうか

こうした理由から、ぼくは思い出の美化は幸せの錯覚であると表現しているのです。

まとめ

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なぜ思い出は美化されるのか、思い出の美化は幸せの錯覚であるという話をしました。

今回は用いませんでしたが、「認知的不協和」という心理学の考え方でもこれは説明できると思います。

思い出が美化される理由

  • 悪い思い出を忘れたいから
  • 頑張ったんだから、よい思い出だったと思いたい

思い出の美化は幸せの錯覚である

  • 過程が不幸でも、結果として幸せだと認識してしまうことが多い
  • 不幸が生じた原因の究明など反省が行われないために、同じ不幸を繰り返す
  • 一時的な不幸と一時的な幸福が何度も繰り返される
  • できるならば過程も結果も幸せなものを目指すべきではないだろうか

決して思い出の美化は悪いことではないのですが、その存在と影響を正しく認識しないと、一時的な幸福を感じるだけで終わってしまいます。

本当の幸福とは持続的にもたらされるべきであり、不幸と幸福を繰り返すことで一時的に得るものではありません

不幸をもたらす原因に目を向けるのは、面倒で辛いことではあります。しかし、過程においても幸せを感じ、持続的な幸せを得るためには、美化しない思い出にも注目しなければいけません。

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