ぼくは英語が嫌いである。そして英語は必要以上に「必要」だと叫ばれていると感じている。
それほど必要だと思わないにも関わらず、周囲が「英語ができないと将来やっていけない」なんてしつこく言うものだから、嫌になってしまった。
英語は必要ないという話をすると、留学にいった友人たちは口をそろえて「グローバル化だから」という。しかしそれ以上はなく、そこで思考停止しているように思える。
英語は日本人全員ができなければならないという風潮が蔓延しているが本当だろうか。確かめもせず、その場の空気に流されているだけではないだろうか。
ぼくはバンクーバーにホームステイしたことがある。Webデザインの勉強のために海外のサイトを不自由なく利用できる。英語のソフトウェアやゲームも問題なく使用している。
京都を歩いているときに、道を聞かれてもなんとか正しいことを教えることができる。学生としては最低ランクの英語力を備えているといえる。
それでも、世の中の英語ができないと絶対にやっていけないという主張には疑問を抱いている。
ぼくが反論したいことは、社会では「みんな」英語ができないと「絶対に困る」という2点である。
特別扱いされる英語
英語は明らかに他の強化に比べ、特別扱いをされている。理科・社会系よりも英語がてきるほうが賞賛されるし、受験も有利である。
「英語ができないと将来困るよ」と言われることがあっても、歴史ができないと、数学ができないと、と言われることはない。
小学校から大学まで一貫して同じようなことを学ぶのは英語だけである。大学では論文を読むために英語が必要だとしても(実際に原文を読む学生は多くない)、小学校から高校まで一貫して選択の余地なしに英語を長時間勉強するのはいかがなものだろうか。
あなたが進んで英語を学びたいと思うのならなんの問題ないが、学びたいと思わない人も、強制的に多くの時間を割かなければならない現状には違和感を覚える。
グローバル化といっても一市民が外国人と接する機会はない
ただの一市民が外国人と英語で話す機会はそうあるものではない。
ぼくの大学には留学生がたくさんいるが、多くの場合留学生は留学生同士で会話している。日本人が話すとしても英語が得意な人が話すくらいだ。
京都を歩いていると、よく観光に来た外国人が若い学生に道を聞く。やや年をとっているスーツを着たサラリーマンや、スーパーの袋を持った主婦に聞く姿はあまりみない。
おそらく外国人は彼らが英語をあまり話せないことを知っているのだろう。実際、話しかけても「英語は無理だから」と断る人が多い。年をとっている人ほど排他的だからという理由よりも、英語が話せないからだと考える方が自然だろう。
決してそうしたサラリーマンや主婦を馬鹿にしているのではなく、むしろ今の日本社会を支えている尊敬されるべき人だと考えている。
注目してほしいのは、グローバル化が騒がれている現代において、英語なんて話せなくても立派に社会の中核を担う人がいるという事実である。
少なくとも今は英語を話せなくても社会を支えることができる。
いつかグローバル化が進み、日本人全員が英語を話せなければならない社会が実現するのだろうか?
外資系企業でも英語力が求められるのは3%
元マイクロソフト取締役の成毛眞氏は著書の『日本人の9割に英語はいらない』のなかで以下のように述べている。
外資系で本当の英語力が求められるのは、本社の上層部と直接やりとりする経営陣で、全社員の割合からすればせいぜい3%である。*1
英語が得意な友人たちは外資系を狙っている人も多く、外資系=英語が必要というように考えている人は少なくない。しかしながら英語が必要であると思われている外資系の会社でさえ、ほとんど英語が必要とされていないのである。
英語が得意だから海外に出たいといって、アメリカの企業に就職しようとしている人はあまりいない。
日本で学んだ英語を活かす機会は想像しているよりは少なく、成毛氏が主張するように1割程度なのかもしれない。
あなたの両親は英語が話せるか
あなたの両親は立派な人だろうか。
あなたの両親は英語を話せるだろうか。
ぼくの両親は、家持ちでローンは払い終わり、ぼくのような子供を育て、高い学費を払って大学に通わせてくれている。
周囲と比較することは難しいが、少なくとも平均以上だし、社会的に馬鹿にされることはない立派な家庭である。両親は日本社会を支える人間の一人である。
さて、ぼくの両親は英語が話せない。大学も出ていない。
少なくとも今の社会では英語ができなくても、家を持ち、子供を育て、大学に通わせることができる。英語ができなければ困るなんてことはない。英語崇拝者はどれだけの生活を思い描いているのだろうか。
むしろ英語がそれなりに話せるはずの大卒なんて、「英語が話せないと困る」どころか、就職できずに自殺するケースすらある。極端な話かもしれないが、全員英語を話せないと将来困るという話だって非常に極端である。
ぼくの家族のようなケースは日本にいくらでもある。少なくとも現代社会において、「絶対に英語ができなければ困る」という考えは洗脳的なまやかしであるといえる。
だからこそ、小学校から大学まで一貫して、得意分野や専門分野に関わらず一貫して英語を教育し続けることに疑問を覚える。
今は英語がなくても平気な時代
以上のことから、現代社会では一般に思われているほど英語が必要ではないことがわかる。少なくとも「みんな」「絶対に」という言葉は過剰な表現であるといえる。
英語の必要性が異常に煽られるのは、英会話業界の宣伝や、同調圧力といった影響によるものだろう。
これらの意見に対して、今は英語の必要性はそれほどないかも知れないが、これからより重要性を増していくという反論は容易に想像できる。
先の読めない時代であるため、必ずしも英語が必要になるとはいえないものの、高い確率で英語が必要である人たちが増えていくだろう。
しかし日本人全員に英語が必要になる前に、情報技術による同時翻訳が発達し英語が話せなくても意思疎通が可能になることが予想される。
すでに音声認識は実用レベルにあり、あとは翻訳精度を高めていくだけである。翻訳は文法などを解析するだけでなく、パターンを収集していくためいつかは必ず正確な翻訳が実現するだろう。
英語はできないよりもできたほうがずっといい。でも英語がなくても他に自分な得意なことがあれば間違いなく生きていける。
英語という特定な科目を苦手とする人を卑下したり、不必要に不安を煽ったりするのはいかがなものだろうか。
*1:成毛眞(2013)『日本人の9割に英語はいらない』祥伝社 p.82