ぼくの身の回りには人と違うことを恐れる人がたくさんいます。
小さい頃は不思議で仕方がありませんでした。人と違うということは特別なことで、特別なことが優れていることの証だと考えていたからです。
例えば、周囲の左利きの友達は左利きであることを嫌がっていました。みんなと違っていたからです。
ぼくも左利きですが、ぼくは左利きであることを喜んでいました。みんなと違う、特別だと感じていたからです。
これは前向きとかポジティブ思考という話ではなく、人と違うということをどう思うのかという点に問題があるといえます。
多くの人たちにとって、人と違うということは恐れるべきことなのです。
人と違うことを恐れる人たち
人と違うことを恐れることは多くの人にとって当たり前のことです。
世間で英語が必要だと叫ばれたら、多くの人たちは英語を必死に勉強します。他の科目ができないことよりも、英語ができないことのほうがバカにされます。特に大学では顕著です。
みんなが英語を必死に勉強するのは、必要であるからと同時に、周りと違ってしまうことが不安だからでしょう。
みんなと同じことをすることで安心感を得られます。多くの人があなたに同意してくれます。みんなと同じであることは社会において大きな武器になることは間違いありません。
一方で、人と同じことを好まず、人と違う道を進みたいと思う人もいます。
ぼくは常に特別を目指してきた
思い返せば、ぼくは小さい頃から常に特別であろうとしていました。
誤解してほしくないのは、常に1番であろうとか、優れた人になろうとしたということではないということです。
むしろそうした比較を避けて、誰もいないような場所にいることが良いことだと思っていました(当時はそれが優れていることだと思っていたかもしれません)。
小学生の頃、男の子でありながらオーケストラをはじめる人は非常に少なかったものです。
高校は普通科のない学校に進学しました。
大学はわざわざ首都圏から京都の大学に進学しました。
これは周囲からみて必ずしも優れていると思われることではありません。
特に普通科のない高校に進学したことは、学校のレベルを下げたということもあり、周囲からすごいとは思われなかったでしょう。
それでもぼくのなかでは良い選択だと感じていました。なぜなら、他の人が選ばないような進路だったからです(実際高校時代はぼくの転機でした)。
中学の友達の中には、友達が大勢いる高校を選ぶ人すらいた中で、誰も知り合いがいないであろうと思われる高校に進学することは非常に特殊でしょう。
それをぼくは特別だと感じていたし、そういう選択をすることが好ましいことだと信じていました。
人が集まるところの頂点と誰もいない場所
当時は「偏差値70の高校に進学すること」と「誰も選ばない(選べない)進路」は同じ特別なことだと考えていましたが、両者は本質的に異なっていることが最近わかりました。
人は本質的に求める場所があると考えています。
これが人と違うことを恐れる人と好む人の違いなのです。
人と違うことを恐れる人は、人が集まるところの頂点を求めます。それが優れていることだと感じます。偏差値70の高校や英語という学問があげられるでしょう。
人と違うことを好む人は、人がいないところを求めます。それが優れていることだと感じます。珍しい進路や受験で扱わないような学問を専門とすることがあげられるでしょう。
ぼくが言いたいのは、どちらが良い考え方とか悪い考え方ということではなく、人間の持っている価値観は2種類あるということです。
人と違うことを恐れる人と人と違うことを好む人
個人的な感覚としては、世の中には人と違うことを恐れる人が多数を占め、人と違うことを好む人が少数派だと感じています。正確な数字はわかりませんが、人と違うことを恐れる人が多いのは間違いないでしょう。
ぼくは世の中を動かすのが「人と違うことを恐れる人」で、世の中を変えるのが「人と違うことを好む人」だと思っています。
人と違うことを好む人は、周囲から距離をおいて辺境の地にいたりすることもあるでしょう。社会の真ん中から離れていくこともあるでしょう。
そうすることが自然なのかなと感じています。周囲からは「なんて損なことをしてるんだ」と言われることがあるかもしれませんが。
自分はもしかして周囲に合わせられない社会不適合者なのかなと思う人は、自分が人と違うことを好むんじゃないかと考えてみてください。
どちらの価値観も非常に素晴らしいものですから、どちらも否定する必要はないでしょう。
人は本質的に「人と違うことを恐れる人」と「人と違うことを好む人」に分けられるんじゃないかという話でした。
両者は価値観が異なりますが、適度な距離を持って分かり合えるといいなと思います。