クラシックとジャズの音楽観はどう違うのか

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興味深い記事を発見したので、これについて語ってみようと思う。

「ジャズ的思考」と「クラシック的思考」あなたはどちら? | ライフハッカー[日本版]

ぼく自身はオーケストラ&クラシックの人間なので、クラシック側の人間として話をすることになる。

ジャズ方面の知識があまりにないため、ジャズという言葉を使うものの、軽音などバンド的?な音楽とクラシックとの比較になるだろう(ジャズや軽音の違いというか、どのように種類が別れているかもあまり知らない)。

クラシックとジャズの異なる印象

「クラシック」対「ジャズ」、「固定」対「自由」、「計画的」対「即興的」などなど、私たちは音楽とは関係ないことでも、そうした対極的なものを分けようとする傾向があります。

http://www.lifehacker.jp/2015/11/151108jazz_classic.html

先ほどの記事によると、基本的にクラシックは固定的計画的といった印象があるらしい。あえていえば堅苦しいということもできる。一方でジャズは自由即興的という印象があると書かれている。

アドリブの存在

ジャズのそうした印象に大きく影響しているのは「アドリブ」の存在ではないだろうか。アドリブは楽譜に具体的な指示はないため自由に演奏することができる。

軽音をやっている友人は「他の誰とも違う自分だけの演奏」であるアドリブに大きな価値を感じていた。

彼が「アドリブのない音楽なんて……」という感情を若干覗かせるくらいに、アドリブは意味のあるものであり、クラシックとの大きな違いの1つだといえる。

知っての通り、クラシックにアドリブは基本的に存在しない。演奏会で指示のないアドリブを披露しようものなら、作曲家を冒涜していると言われかねない。

アドリブという存在にこそ、クラシックとジャズの音楽に対する考え方の違いが出るのではないかと僕は思う。

クラシックは固定的なのか

確かにクラシックにはジャズのようなアドリブは存在しない。しかしクラシックが固定的なのかと言われれば、そんなことはないと思う。

クラシック音楽には同じ曲でも指揮者によって「曲の解釈」が大きく異なる。わかりやすいものでいえば、テンポが指揮者によって全く違ったりするため、同じ曲でも演奏時間が10分も異なるということがあげられる。

チャイコフスキーの交響曲第6番 1楽章の演奏時間は以下のようだと言われている。

演奏時間は16分から17分(ムラヴィンスキー、マゼール、ネーメ・ヤルヴィ等)のものから25分以上(チェリビダッケ)のものまであるが、ほとんどの演奏が18分から20分である

交響曲第6番 (チャイコフスキー) – Wikipediaより引用

固定的という印象に対して、演奏自体は演奏者や指揮者によって大きくその形は変動することがわかる。

偉大な作曲家という存在と「曲の解釈」の概念

しかし、指揮者が音楽を通じて「自分らしさ」を徹底的に追求しているのかといえば、そうとはいえない。クラシックでは作曲家が圧倒的な地位を持っているからだ。

ベートーヴェン、チャイコフスキー、マーラーといった作曲家は素晴らしい曲をつくったということだけでなく、一人の歴史上の偉人として尊敬されている。

そのことは、多くの作曲家の個人的な特徴や生い立ちなどが研究されていたり、クラシック奏者に知られていることからもわかる。

ベートーヴェンは耳が聴こえない。ドヴォルジャークは鉄道オタクだった。チャイコフスキーは幼少期に母との別れを経験している。何度もうつ病になっている(当時のキリスト教では禁忌の同性愛者だったという説もある)。

重要なのは、これらがただの「豆知識」ではないということだ。これらの情報は「クラシックの演奏に必要な情報」として扱われている。

そんな個人的な情報が演奏のなにに役立つのだろうか?

そこにはクラシックの「作曲家の再現」という考え方が影響しているとぼくは考えている。

曲の解釈とは作曲家の考えの再現である

多くのクラシック作曲家は昔の人であり、その人が当時なにを考えていたのかわからないし、その曲をどのように演奏して欲しかったのかもわからない。

今に残されているのは楽譜という演奏指示が書かれた書類だけである。

現代のクラシック奏者の使命は、この残された過去の書類を元に忠実に演奏を再現することだと考える人がいる。

しかし、楽譜の持つ情報量には限りがある。楽譜だけでは作曲家がなにを考えていたのかわからない。

だからこそ、作曲家の個人的な情報が「演奏に必要な情報」として求められるのである。

「この作曲家はこの曲を書いたとき失恋していた」「このときは人生の最盛期だった」「この時期はこんな作曲テクニックにハマっていたらしい」このような情報も含めて、作曲家が求めた音楽を追求していく。

幅のある正解と曲の解釈

これはある意味では「正解」を探していく作業だといえる。ただしこの「正解」は国語の回答のようにある程度幅のあるものである。

指揮者や演奏者によって答えが違う。つまり曲の解釈が異なる。これが先ほどの曲の長さに影響してくるのだ。もちろん、人によって違いあるとはいえ、それぞれの指揮者や奏者は自分のそれが正解だと信じている。

これを固定的だとか、言われるがままでつまらないと考える人もいるかもしれない。しかし過去と向き合うという作業をつまらないと片付けていいものだろうか

クラシックにかぎらず歴史が好きだという人は多い、歴史家は過去から多くのことを学び取っている。こうした人たちもまた過去と向き合っている人たちであり、そのことに大きな意義を感じている。

ぼくも日本の戦国時代や中国の三国志はクラシックと同じくらいに好きであるが、歴史の偉人達がなにを考えていたんだろうと想いをはせることと、音楽を通じて作曲家の考えを再現することは非常に似ていると思うし、それは非常に意義のあることであるといえる。

もちろん、こうした作曲家の考え方の再現という考え方に異を唱える人もいるし、聴き映えする演奏を目指す人もいるだろう。決してそれは悪いことではない、どちらかというとぼくもそうした考えを持っている。

しかし、クラシックでは「あえて当時の古い楽器を使って演奏する」といったことも行われており、過去や作曲家の想いを再現するということが一般的に考えられていることは間違いないだろう。

クラシックとジャズの音楽観の違い

本題に話を戻すと、クラシックとジャズの音楽観の違いは「作曲家という存在の大きさ」や「自分らしさをどれほど出すべきか」という点にある。

ジャズにはアドリブがある。アドリブは作曲家の干渉はほとんどない領域である。そのため自分というものを完全に出すことができる。

クラシックは作曲家の遺した楽譜をもとに、その人の音楽や想いを再現しようという考え方が強い。

指揮者や奏者によって”らしさ“はあるものの、やはりその前提には「作曲者はこう考えていただろう」という解釈が介在しており、完全に自分を押し出したものとはいえない。

しかし、かといってクラシックが否定されるべきではない。他の歴史と同じように、過去の偉人と音楽を介して向き合うことには大きな意義がある。

クラシックの演奏会の評価で「そこにベートーヴェンがいるようだった」などという論評を書く人がいる。今までの話を踏まえると、これが最大の賞賛ということがわかるだろう。

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